責任分配と遂行から考える仕事論

Published: 2026-07-19Updated: 2026-08-21

はじめに

本稿は私が仕事をする上で利用しているフレームワークを文章化したものである。これまで口頭でしか周りに紹介したことがなかったが、その際ありがたいことに、多くの方から好評をいただいていたため、改めて体系化し、記事として投稿することとなった。

この記事では仕事を対象としているものの、例えば経営論や組織論、経済論といったものには該当せず、ただひたすら仕事にまつわる物事を特定の視座からプラグマティックにモデリングした結果を書き並べている。そのため、おそらく一般的な体系とは異なる意味で用語を使用していたり、またそれらとの齟齬を多分に含んでいると思われる。この記事はどこまでを射程として含んでいるのか、それは私自身も把握できないことだが、何かのヒントになれば幸いである。

仕事とは何か

仕事に限らず、あらゆる物事はいかようにでも捉えられ、定義できる。そのダイナミックな営みは継続されるべきものだが、かといって常に揺れ動いていては何も決めることができない。なのでここでは、どのように定義することが有益であるか、また有益であったかという視点で仕事へ仮説を与えたいと考えている。そのために私は、仕事とは、他者からの期待への応答としての責任を引き受け、全うすることであると唱えてみたい。

責任の分配装置としての会社

例えば、ある人物が何らかの社会的問題を発見し、その責任を引き受け、全うしようとしている状況を考える。多くの場合、その問題の規模は巨大で、専門性が高いため、一人で引き受けるには困難を極める。例えばよくある問題領域としては、経営、企画、営業、技術、経理、人事などがある。また取り組もうとしている問題固有の専門知識を要求されるケースもあるだろう。これに対応するため、それぞれの専門性のある人物と共に組織を構築し、大きな責任を個々人に分配して、引き受ける。これが会社の大まかな構造である。

会社の事業がうまくいけば、責任を引き受けた結果が貨幣へと変換されるだろう。それは組織のメンバーへ給与として分配されたり、次のアクションのための再投資に回され、さらなる利益追求へと向かうことになる。ところで、会社は経済活動を行う上でより利益を拡大し、非連続的な成長を求められるわけだが、どのようにしてこれは達成されるだろうか。もちろん現状維持では何も変わらないどころか、多くの場合は衰退になるだろう。効率化・クロスセル・アップセル・事業拡大など、具体的なアプローチは様々にあるが、つまるところ、会社はより大きな社会的責任を引き受ける必要が出てくる。では、どのようにすればそれを引き受けることができるか。もちろん効率化を推し進める選択もあるが、それでも限界はある。その限界においてより多くの責任を引き受けようとするならば、より多くの人間へ責任を分配するしか方法はないだろう。このとき新たな雇用が創出され、組織が拡大し、より大きな責任を引き受けて、利益を拡大する。このループによって会社は経済的成長を続けることができる。

よりミクロな視点で考えてもよいだろう。例えばある社員がタスクを大量に抱えていたとする。そのタスクの量はあまりにも多く、一人で捌き切ることが難しい状況である。この問題を解決するためにはどういったアプローチがあるだろうか。例えば効率的にタスクをこなすための方法を考案し、実践するという、業務効率化としての方法もあるだろう。しかし、もしこれがすでに行われており、他の社員も同様にタスクを大量に抱えていたり、そもそも多忙で業務効率化に着手できないような状況だとしたらどうだろうか。こうした状態が慢性化しているのであれば、タスクの分配先を新たに用意し、組織の余裕を回復するしか方法はないだろう。つまりこれが採用である。言ってしまえば、採用とは会社が抱えている問題と、その問題を解決できるかもしれない能力を持った人間とのマッチングである。こうして人材を獲得することで、問題解決できる総量が増加し、組織はより大きな責任を引き受けられるようになる。

ここで言いたかったことはシンプルである。仕事において組織がより大きな社会的責務を引き受けようとする限り、組織へと分配される責任も増え続けるため、組織も同時に拡大していく必要がある。仕事とは、この拡大のループにおいてより大きな責任を引き受けるための経済的営為であり、ここにおいて会社は、引き受けた責任を個々人へ分配するための装置となる。

責任の委譲先を求める採用

組織内の振る舞いにおいては、究極的には責任を引き受けて全うすればよいだけであり、残りはそれを遂行するための個別具体的なHowでしかない。なのでここでは、その入り口となる採用にフォーカスを当てて考えてみたい。上記のように仕事を仮定した場合、組織における採用とはどういったものになるのかを整理する。

といったものの、結論は非常にシンプルである。つまり採用とは、組織は抱えている(抱えようとしている)責任を全うできる(できそうな)人物を獲得し、問題解決の総量を増加しようとする営為である。そのため採用において重要になるのは、その人物がどういった人なのかを知ることに尽きる。これには能力としての側面はもちろん、人柄や価値観といったものも含まれる。とにかく、その人が持続的に責任を全うできるのか、これを検討したいのである。

学歴について

ところで、採用における学歴とは一体どのような役割を持つであろうか。実のところ、学歴とは単なるラベルにしかすぎず、本質的な情報にならないことが多い。なぜならば組織が欲しい人材とは、組織が持つ責任を引き受け、全うできる人物である。もしその責任を引き受ける前提条件として、特定の学歴や資格といったものが必要でないならば、学歴がいかに空虚な肩書きであるかがわかるはずである。

しかしなぜ、特に新卒一括採用の文脈において学歴が多く参照されるのかと言えば、それは優秀な人物は学歴も高いことが多いという仮説に基づいているからである。例えば学歴フィルターというものは、主に規模が大きく、より多くの人材を獲得する必要があり、かつ多くの求職者が集まってくる組織の足切り戦略として採用されやすい。理由は主に二つある。一つは、多くの求職者を一人ひとり丁寧に見ていく時間を取れないという点。もう一つは、新卒一括採用は基本的に見込み採用になるという点である。後者はつまり、個々人を深ぼったとしても、実務としての経験がない、または浅いため、実際にどれくらいの責任を引き受けてくれるかの判断を経験ベースでできないため、現状はっきりしている学力という指標と先の仮説を踏まえて、一つのパラメータとして参考にされるケースがある。

しかし、現代において学歴至上主義の価値観は徐々に変化してきている。特にベンチャー企業においては即戦力が求められることが多いため、業界や職種にもよるが、判断軸として学歴をほとんど考慮しないケースも珍しくない。他にも人材の多様化や働き手の減少など、背景は様々にあると思うが、少なくとも学歴が就職において決定的に重要な肩書きであるとは言えない時代になってきているのは確かだろう。

責任を引き受ける労働者

学歴が重視されない世界とは、果たして労働者にとって優位なものであろうか。全くの逆である。なぜならば、その組織において問題解決を行える能力や経験を示さなければならないからである。学力には得意不得意はもちろんあるものの、努力次第である程度はできるようになるが、個々人が持つ能力や経験とは、学力のように明確に決まった指標はなく、それがどういったものであるかを何らかの指標を持ち出して示さなければならない。これは勉強よりも抽象的な取り組みであり、解釈によって評価が多分に揺れもする。果たしてこれが学歴重視の世界よりも簡単なことと言えるだろうか。しかし、ここではその問題についてあえて真っ向から答えたい。なぜならば本来その方が、仕事においてより本質的だからである。

労働者視点の求職とは、組織が取り組む責任の引き受けと拡大のサイクルに、どのようにして自己を参加させるかという問いに変換できる。より簡単にいえば、いかにして組織が持つ責任の一部を引き受けるかということである。そのために必要なことは二つある。一つは、組織が抱えている課題を知ること。もう一つは、自己がどういった人間であるのかを知ることである。

求人の裏には組織的課題が必ず存在する。組織が求人を行うということは、現在の人的資源ではその課題への対応が難しく、新たに人材を獲得することがその解決の見込みが最も高いということである。その際に組織は欲している採用ターゲットや人物像(ペルソナ)を大なり小なり構築しているはずであり、その理想をもとに採用活動を行っている。

ならば求職者が行うことは単純であり、その課題を知ることに尽きる。自らがその課題を解決できる/できるであろうかを、求人情報や面談などを通して把握する。繰り返しになるが、採用/求職活動とは、極論を言えば課題と人物のマッチングである。その判断は採用担当者が握っているのではなく、求職者にもある。つまり活動を通じて知り得た課題を引き受けるかを最後に決めるのは求職者であり、決して組織が主で求職者が奴のような関係ではないのである。

ただし、そのためには自らがどういった人物であるかを把握することが不可欠である。つまり自らがどういったことができるのか/できる見込みがあるのかを知らなければ、組織の課題を知ったところで無意味になってしまう。求職活動において自己分析と呼ばれているものの本質はここにある。つまり、求められている人物像に自己がマッチしているのかを判断するために、自身を知っている必要があるのである。

ところで自己を知るには、どういったことができるかといった能力的な問題も含むが、同時に自らの感性を知ろうとすることも推奨したい。例えば、自身にとってどういったことに喜びや苦しみを感じるのか。どういったものを欲し、嫌っているのか。どういったことに関心があるのか。情熱があるのか。そして特に重要なのは、どういったことに楽しみを覚えるのかである。

『論語』にて孔子は、「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」と語っている。つまり、何かを知っていたり好きでいることよりも、楽しんでいる者の方がうまくやれるということである。その理由は非常に単純である。楽しいことは楽しいから自ずと取り組むので、これ以上の理由を必要とすることなく自然と上達するのである。楽しさは最高の動機づけであることを、二千年以上前に孔子は見抜いていたのである。

なぜこうした感性を知ることが重要なのかと言えば、それはそうした自己の性質を踏まえ、どのように社会と関係づければよいかの指針になるからである。先の楽しさでいえば、楽しみを覚えることは、そこに関係する何らかの能力が秀でている可能性が高い。あるいは、その楽しむという感性を用いて、より能動的に取り組める可能性が高い。この領域の責任を引き受けることは、仕事をうまくこなす上で強力な武器になり得る。なぜならば、能動的に責任の範疇を広げてくれる人材は組織において貴重だからである。逆にネガティブな感性であれば、どういった環境が自身には向いていないのかを把握するための指針になる。能力基準の判断は実務として必要になるが、一方で感性基準の判断は能力も一部含みつつ、カルチャーマッチまで射程を含むことができる。もし自らが見出した感性と社会的要求の間に関係を見出すならば、それはWork Life Balanceではなく、Work as Lifeとなるだろう。

手段としての経済

仕事についての仮説や分析とともに、どのような戦略が考えられるかを述べていたものの、こうした考えは一つのものの見方に過ぎないことは述べておきたい。

例えば、世の中には無数に仕事が存在するわけだが、法に触れない限りは、どの仕事を引き受けてもよい。だから上記で述べたように、楽しさを基準に引き受けてもよいし、より大きな富を得られるような仕事でも、自身にとって楽な仕事でも。職業に貴賎はないので、自己にとって適当な仕事を選んでいただきたい。

もちろんどういったスタンスで仕事に取り組んでもよい。自身の楽しさを最大化できるような責任を探してもよいし、より大きな責任を引き受けるために自己研鑽しても、学歴採用という戦略の穴をついて学歴を追求するのでも、ましてスタンスなんて持たずに仕事さえ引き受ければ何でもよいという考えもある。すべては自己と社会の関係づけにおける程度の差でしかなく、どれが正しいという話ではない。

また多くの場合、人は経済的な要求に従わなければならないが、別に正攻法で攻略しなければならないものでもない。真正面から向き合って成長を目的として振る舞ってもよいし、あるいはずる賢く逃げて、結果として成長できるのかよくわからない状況へ自身を賭けに出してもよいだろう。極論を言ってしまえば、罪を犯さず納税をして(願わくば倫理的に、そして幸福に)生きていればそれでよいからである。

結局のところ、自らの選択を振り返ったとき、そこに納得があればそれでよいのである。自己の充足と社会を含めた他者との調和をいかに両立するか、仕事とはその一つのあり方でしかない。どうやって自己のために経済を使い、折り合いをつけるか。ここまでの文章は、その一つの例に過ぎないのである。

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ichi-h

過程において自己を疑い尽くし、その先で自己に出会い、それが真に自己自身であったという信へと転ずることへの信をもって生と為す。
Through: philosophy, music, photography, literature, etc.