ジェームス・W・ヤングの『アイデアのつくり方』という本をご存じだろうか。この本は、世間一般的にはアイデアがどのように作られるのかをその本質から探究し、生成過程を追跡した本として認識されていると思われる。
もちろん私も大学生のころ、学校からの帰り道にこの本を読んで感動したことは今でも覚えているが、実のところ、この本で最も深く感銘を受けたのはそこではなかった。ではどこなのかというと、それは以下の文章である。
さて私たちには生来アイデアを作り出す才能があるとする。ここで私たちはつぎに、それではこの才能を伸ばすにはどんな方法があるだろうか、という実際的な疑問にぶつかる。
どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり第二に方法である。これはアイデアを作り出す技術についても同じことである。
特種な断片的知識というものは全く役に立たない。それはロバート・ハチンス博士が〈急速に古ぼけてゆく事実〉と名づけたものからできている知識だからだ。原理と方法こそがすべてである。(ジェームス・W・ヤング著、今井茂雄訳、竹内均解説『アイデアのつくり方』、CCCメディアハウス、1988年、p.25、圏点は太字にて表記)
詳細は割愛するが、アイデアのつくり方における原理とは、アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせであり、その組み合わせを見つけ出すことには才能に依存しているというものである。そしてそれを生み出す方法が、資料集め→咀嚼→組み合わせ→閃き→適用の五段階である。
重要なのはこの詳細ではない。アイデアのつくり方を含めたあらゆる技術習得において、上記のような原理と方法を仮定することは有用であるという、この思考スキームを提示したことが、この本の最も大きな価値として私は解釈している。
コミュニケーションも技術的な側面が存在する。これからこの技術を上記の思考スキームに従い、例として二つ解釈をしてみようと思う。
注意したいことは、ここにおいてコミュニケーションとは本質的に何であるかを議論したいわけではない。重要なのは正しさではなく、そのようにコミュニケーションを解釈すると現実において役に立つ可能性が高いと考えられる、有用性における仮定ということである。
また、ここにある考え方は常に有効であるとは限らない。状況によっては使えるかもしれないが、他の場合では使えないことも十分に考えられる。完璧なコミュニケーションスキルというものは存在しない。その場その場に応じて適切な道具を使うことも一つの能力である。
ここではコミュニケーションの原理を問題解決の営為と解釈するならば、これをどのように進めることができるかを、ソフトウェア開発におけるドメイン駆動設計という手法を参考に検討してみたい。
ソフトウェアとはそもそも、現実に起きている問題(ドメイン)を解決したり、効率化するために存在している。そのため、このドメインを知らずしてソフトウェアを開発することは不可能であるから、これを開発を行う際、ドメインが一体なんであるかを把握できる抽象としてのモデルを作成し、このモデルとソフトウェアを紐づけて、問題を解決しようとする。こうしたアプローチをドメイン駆動設計と呼んでいる。
ドメイン駆動設計において重要となるポイントは、ドメインの決定とモデルの構築の二つである。
ドメインの決定とは、どこまで問題で、どこからが問題でないのかを決めることである。例えば金融のシステムにおいて、お金にまつわる管理の問題はドメインになりうるが、顧客が着ている服は問題になる可能性は限りなく低い。
一方、モデルの構築とは、そのドメインにおいてどういったことが問題になっているのかを把握できる写し絵を作ることである。ソフトウェア開発者は、そのドメインのスペシャリストではないので、直接ドメインを把握することは不可能である。だから、そのスペシャリストから得られる情報を咀嚼し、ソフトウェアにかかわる人すべてが理解できるモデルを構築することが重要となる。モデルは言葉や図で書いても、理解できるのであれば、何であっても構わない。
さて、この考え方をコミュニケーションに転用してみようと思う。
まずコミュニケーションの原理を、上記のような問題解決と仮定する。つまりコミュニケーションを、参加する人物間で抱える問題を解決する営為と捉える。そうなった場合、コミュニケーションの方法はどのようになるかというと、もちろん問題解決のための手段として会話が行使されることになる。
抽象的すぎるので具体例を挙げよう。
例えばあなたと会話しているAさんが、「眠いけど起きてないといけないからお話をしたい」と話しかけてきたとする。この時に問題となるのはもちろん、Aさんが起きていないといけないことであり、このコミュニケーションにおいて問題が解決された状態(≒ 目的)とは、Aさんが眠らずに起きている状態となる。
この状況下において次に考えることは、どうすればAさんを起きたままにできるかだが、ここで問題になるのは、Aさんに対して何をすれば目が覚めるのかを知らないということである。
生理学的に見ればある程度パターンはあるのかもしれないが、人によって目が覚める行動が異なることは想像がつくだろう。ある人は、積極的にお話をさせたら目が覚めるかもしれない。ある人は、ストレッチをさせたら目が覚めるかもしれない。ある人は、ドッキリを仕掛けたら目が覚めるかもしれない。しかし実際のところ、何が効くかはやってみないとわからない。
逆に、何をさせたら眠ってしまうのかもある程度パターンがある。例えば無言のままになったり、難しいことを考えさせたり、子守唄を聞かせたり、そういった行動はおそらく眠らせる可能性が高くなると考えられる。
なのであなたがこの場において取るべき行動は、何をすれば相手が起きていられるのかの問題の把握、つまりAさんのモデルの構築、言い換えれば、相手の考えや傾向などの写し絵を自分の中に作ることである。
ドメイン駆動設計に従うならば、「あなたは眠い時どういうことをしますか?」と質問するのが真っ当だが、この質問自体がドメインの解決に直結しない可能性も存在する。重要なことは、Aさんを眠らせないという問題を解決することである。
もし私であれば、手当たり次第にいろいろな手法を試してみる。とにかく質問をしてみる。目が覚める音楽を流してみる。適宜「起きていますか?」と尋ねる。このドメインにおいて、会話の内容は重要ではないし、特別に面白い話をする必要もない。目的を達成するために、何をすれば起きていられるのかのAさんの傾向を把握し、効果のあるものを継続することである。
上記は非常に日常的な例だが、こうした考え方は特に、相談ごとや、何かについて議論する会議といった、明確に目的を定めることができるときのコミュニケーションモデルとしては、公私ともにかなりの威力を発揮する。機会があれば試してみてほしい。
今度は相手の話を聞く技術について検討したい。こちらは見出しの通り、特に相手の話を聞いたり、質問する状況における考え方として非常に有効である。
巷では聞く力や傾聴力という言葉が流布しているが、思うにこれらが言わんとしてること、つまりその原理とは、『聞く』とは他者の受容であり、『聴く』とは他者の理解であるとここでは解釈したい。
他者受容としての『聞く』とは、単に相手の話を聞くことではない。藤本・大坊(2007)では、コミュニケーションスキルを六つのカテゴリによって解釈を試みたENDCOREモデルという概念が提唱されており、そのカテゴリの一つに他者受容と呼ばれるものが存在する。それは「相手を尊重して相手の意見や立場を理解する」(藤本・大坊 2007: p.353)ものとして定義されている。
この他者受容は、共感性・友好性・譲歩・他者尊重というサブスキルから成り立っているが、学術的な検討をスキップしていることを承知で私なりに解釈するならば、相手を否定せず、そのまま受け入れ、実践することと言える。
我々は人と会話をする際、当たり前だが相手と価値観が異なる場面に多く遭遇する。こうしたときに自分の価値観を相手に理解させたり、主導権を握る能力も時として重要だが、一方で、相手の考え方や価値観を尊重し受け入れ、自分自身が折れることが要求される場面も存在する。あるいは、相手とは異なる価値観を受け入れ、その考えに共感し、自らのものとして実践することも一つの他者受容だと考える。
繰り返しになるが、話を聞くだけがコミュニケーションではない。会話以外も含め、相手を否定せずに受け入れる態度そのものが『聞く』である。
『聴く』も一種の他者受容であり、ENDCOREモデルでいうところの解読力(相手の伝えたい考えや気持ちを正しく読み取る(藤本・大坊 2007: p.353))にも重なるところだが、『聞く』が相手を受け入れることであるのに対し、『聴く』は積極的に相手へ語り掛け、理解しようとする態度である。
私の言葉で説明するならば、これは相手の価値観や趣味趣向、生い立ち、感情、認知のクセ、感性など、そういったものを明らかにし、咀嚼して、自分自身の関係に位置付けること(モデル化)と解釈している。
このとき注意を向けるのは、自分自身との共通点だけではなく、差異にも目を向ける。つまり、相手と自分の共通点を明らかにしつつ、どこが自分と異なるのかを明らかにすることも等しく重要である。これももちろん単に質問するだけではない。相手との差異に関心を開く態度も『聴く』には含まれる。
見出しでは『聞く』と『聴く』と二つに分けて紹介しているが、上記のように、実際のところこの二つは不可分である。つまり、『聞き』ながら『聴く』し、『聴き』ながら『聞く』のである。
このように仮定した場合、どのように『聞く』『聴く』を実践すればよいのか、その方法について考えたい。
これは両方に言えることだが、他者を尊重するうえで脱構築という考え方は非常に役に立つ。これが何であるかを説明することは困難であるため、学術的な厳密な議論は避け、ここでは千葉雅也の『現代思想入門』を参考に説明させていただく。
言ってしまえば脱構築とは、物事の二項対立を決定せずに保留する方法論である。
脱構築の手続きは次のように進みます。
①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。 しかし、ただ逆転させるわけではありません。
②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが保留された状態を描き出す。
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるかのような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。(千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書、2022年、p.53)
例えば「勤勉であることは善である」と言った人がいたとする。勤勉の反対を怠惰と捉えるならば、この文章は勤勉と怠惰が対立していると捉えることができる。
一見勤勉であることは良いのように見えるが、実際のところ、そこまで単純な話ではない。勤勉であっても過度に行き過ぎれば心身に不調をきたしたり、プライベートな時間を損なってしまうかもしれない。一方、怠惰であるからこそ生活にゆとりや余裕が生まれることもある。
しかしだからと言って、「怠惰であることは善である」と逆転させたいわけではない。この二つは両義的であり、言わばどちらも薬であり毒でもある。このどちらが正しいだとか、優れているかといった勝者を決定することなく、保留する。上記の方法によって、「いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができる」(同上、p.22)のである。
他者受容もここにヒントがある。ここでは相手との価値観といった差異を受け入れることが必要となるが、このときどちらが正しいかを競っていては「共」の可能性は開けてこない。だから脱構築する。互いの価値観を保留し、徹底的に差異を明らかにできるからこそ、互いが尊重されるものだと理解できるのである。
私事でお恥ずかしい限りなのだが、私は相手へ質問を振ることがあまり得意ではない。何かを尋ねようと思っても、質問が出てこないのである。これを性格上の問題として解釈することも可能だが、私はこれを、そもそも『聴く』ためのHowを十分に持っていないがゆえ、『聴く』ことができないと捉えている。
この問題の対策を考えていたところ、確かに具体的な質問を考えると無数に存在するが、その質問の本質的な部分を抽象化すれば、実のところ、質問というのはいくつかのアプローチに分類できるのではないかということを思いついた。その結果としてできたものが、『聴く』ための会話デッキである。
会話デッキというと、何らかのエピソードやトークテーマなどを事前にストックとして持っておくものというのが一般的な理解と思われる。
私の言う『聴く』ための会話デッキとは、言わば相手を深掘るためのフレームワークであり、相手をモデリングするための具体的なアプローチである。相手の発言に対して、どのように理解を深めるかのアプローチを事前に準備しておくのである。
これについては説明するより見てもらった方が早いので、私が実際に組んでいるアプローチの一部を例として挙げる。並んでいるものは理解のアプローチとその詳細である。
例えば「休日の過ごし方」についてお話しているとき、以下のような返答があったとする。
あなた:
最近休日はどのように過ごしていますか?相手:
最近は「デジタルとアナログのバランス」を大事にしています。
午前中は溜まっていた家事を一気に片付けてスッキリさせて、午後は近所の静かなカフェに行くことが多いです。そこで、あえてスマホを置いて読書をしたり、ぼーっと人間観察をしたりするのが、私にとっての「心の充電」になっています。
相手の興味関心は「デジタルとアナログのバランス」であり、それについての実践を説明してくれているが、ここでどのようなアプローチで相手を深掘ることができるだろうか。
例えば「心の充電」というワードが出てきたが、これはどういう意味であるのかを問うてもよさそうである。これはこの言葉を相手がどのように捉えているのかの「関係」の側面から理解する質問である。「心の充電」を中心に、マインドマップのように関係性を広げていくように解釈を深めるイメージになる。
または、「心の充電」をするとどうなるのかを質問してもよさそうである。これはその結果としてどのように感情や感覚になるのかといった「感情・認知」について深める質問と捉えられる。
あるいは、そもそもなぜ「デジタルとアナログのバランス」を大事にしているのかを問うてもよい。これはその考えに至るまでの「物語」を問う質問である。
さらには、相手からの返答に対して、自分自身の理解を確認したり、自分との共通点や差異に気づけば、その内容を「確認・差異」として伝えても良いだろう。ただしこの返答は、自らが話し手へと切り替わってしまう可能性があるので、状況によっては注意が必要な選択でもある。
このように『聴く』ための会話デッキとは、相手の理解を深めるための抽象的なアプローチを事前に用意しておき、そこから質問を生み出して、会話を展開するための方法論である。
もちろんこのアプローチを常に頭に思い浮かべているわけではない。真っ先に興味のある事柄が浮かんだのであれば、それについて『聴く』というスタンスで全く問題ない。あくまで、どのように相手を理解しようか困ったときに使うものである。
また、このようなものを用意すると、まるで機械的に会話が進むのではないかと懸念されるかもしれないが、それが目的なのではもちろんないし、実際そうなることもない。むしろこれは私のように、『聴く』ことが苦手な人に向けた豊かにコミュニケーションを行うためのHowである。論理やフレームワークは無機質かもしれないが、そこに充填するものは血の通った人間である。コミュニケーションのスキルを使ったからといって、会話が無機質にならないのと同じである。
私はコミュニケーションが何であるかの本質的な定義を問うことに大きな関心はない。その代わり上記のように、どのように仮定すれば有用であるかによってコミュニケーションを解釈している。なぜそうしているのかというと、コミュニケーションはいかようにも解釈できるものであり、そして多くの場合、その場その場の人や社会によってその解釈は大きく異なるため、特定の文脈に落とし込んで定義を行うと説明できない領域が必ず存在するからである。聞き上手がいわゆるコミュ強として扱われる場面において、自分の話を重視して会話をしてしまう人がコミュ障と位置付けられてしまったり、その逆も然りのようにである。
なのでコミュニケーションを完璧に説明するモデルを構築するよりも、その場その場の状況に合わせてコミュニケーションそのものを柔軟に解釈し、最適なスキルを行使すること。これがコミュニケーション上手だと私は捉えている。
上手といったものの、そもそもコミュニケーション、というより人付き合いというのは本質的に難しい。どんなにコミュニケーションを上手にとれる人でも、これを簡単だという人に私は出会ったことがない。極端に言えば、人類皆コミュ障と捉えることもできてしまう。コミュ障やコミュ強という言葉が使われるようになってから久しいが、これらの言葉に本心では納得していないのは上記すべてを含めた背景からである。コミュ障・コミュ強という言葉は、コミュニケーションに対する思考停止である。
だから私はコミュニケーションにまつわる解釈を多様に持つことで、この問題へ対応しようとしている。まだまだ道半ばであり、コミュニケーションを制したと言うことは到底できないが、Human Societyを幸福に生きる上で、私にとってこうした考え方や技術は必要なものと捉えている。