「われわれは――《たとえ神がいなくとも》(etsi deus non daretur)――この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そして、まさにこのことを、われわれは――神のみ前で認識する! 神ご自身が、われわれを強いて、この認識にいたらせたもう。このように、われわれが成人することは、神のみ前における自分たちの状態の真実な認識へとわれわれを導くのだ。神は、われわれが神なき生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。われわれとともにいたもう神とは、われわれをお見捨てになる神なのだ(マルコ十五章三四節〔わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか〕)。神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせたもう神こそ、われわれが絶えずそのみ前に立っているところの神なのだ。神のみ前で、神とともに、われわれは神なしに生きる」(四四年七月十六日)。
引用: 宮田光雄『ボンヘッファーを読む 反ナチ抵抗者の生涯と思想』(岩波書店、1995年、p.181)
これは大学生のころ、神学者である恩師から教わった言葉であり、個人的な思い入れも合わせて、今の今まで心に深く残るものとなっている。
師は引用の最後の一文を「神の前で=謙虚に、神とともに=良心を持って、神なしに=自律する」と解していたが、ここでは改めてボンヘッファーの言葉を踏まえつつ、自分の言葉で捉え直したいと考えている。
ボンヘッファーはキリスト教神学者であるが、そうした人物が「神なしに」と語ると違和感を覚える。これはどういうことだろうか。
まずボンヘッファーにとって、論理や経験、科学、道徳、哲学、そして宗教など、ありとあらゆる作業仮説という名の手段によって存在を証明しようとした神は排除されるべきものである。
また、人間が行き詰まったりしたときに語る急場を救う神を「機械仕掛けの神」と呼び、さらには神なしには生きられないと主張する教会的弁証論を、無意味であり、下劣で、非キリスト教的だと切り捨てている。
なぜここまで容赦ないのかというと、それはボンヘッファーが、神やイエスが世界に対して『成人性』を求めていると考える点にある。
マルコ十五章において、イエスは兵士に頭をたたかれたり、唾を吐かれ、侮辱されたあげく、十字架につけられ、さらし者にされながら人々から散々と罵られ、最後には大声を出して息を引き取った。
この場において示されているのは、神の彼岸である。ボンヘッファーが「われわれをお見捨てになる神」と呼んだのは、この此岸においてあまりに無力な神のことを指している。われわれが生きている世界とは、こうしたものなのである。
人間は、この神なき此岸に責任を持って生きることを認めなければならず、そしてこの自律を、神自身が求めているのである。人間は神の前でこれを認識し、逃避として都合よく呼び出した神を、自らの誠実さに従い、徹底して破棄しなければならない。
そしてその上でなお、此岸において神への逆説的な祈りへと転ずるならば、ここに神は現実性を帯びる。イエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」がまさにこれである。神は彼岸的でありながら、同時に此岸の只中で働かれている、そう祈るところに、神はある。
「神とともに」とは、「われわれをお見捨てになる神」とともに、此岸における苦難を引き受けることであり、この自律において、人間は成人する。
冒頭の通り、師はボンヘッファーの成人性を「神の前で=謙虚に、神とともに=良心を持って、神なしに=自律する」と解していたが、ここまでの内容を踏まえると、「自律」は良いものの、「謙虚」や「良心」は直接繋がらないように見える。
「神の前で」については、もし作業仮説としての神や、機械仕掛けの神のように、人間が都合よく神を持ち出してしまうエゴイズムの克服という意味で「謙虚」を使ったのであれば、筋は通るのかもしれない。
また「神とともに」についてを考える上で、ボンヘッファーが語る以下の言葉に着目したい。
「神は、ご自身を、この世から十字架へと追いやられるままに委せたもう。神は、この世においては無力で弱い。そして、まさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、神は、われわれのもとに降り、またわれわれを助けたもう。キリストの助けは、彼の全能によってではなく、彼の弱さに、つまり、彼の苦難による。……ここに、あらゆる宗教にたいする決定的な相違がある。……聖書は、人間を神の無力と苦難とに向かわせる。苦しむ神だけが、助けをあたえたもうことができる」(四四年七月十六日)。
引用: 宮田光雄『ボンヘッファーを読む 反ナチ抵抗者の生涯と思想』(岩波書店、1995年、p.185)
ここでキリスト教的良心を「他者との越境的関係と他者への配慮」(*) と解するならば、神やイエスの弱さゆえに助けを可能とするこの逆説を、弱さから他者への配慮を可能とする「良心」へと読み替えることは可能なのかもしれない。
しかし、推測が絡むので不確かではあるものの、接続を試みた結論としては、正直どちらも論理的に飛躍があるように思う。もし仮にそうでなかったとしても、これまでの内容を踏まえると、これがボンヘッファー的であるかと問われると疑問が残る。
なので師のこれはボンヘッファーの解釈というより、ボンヘッファーが提示した世界観において、どのようにあるべきかを実存的な態度として再解釈したものと私は捉えている。つまり、エゴイズムが克服された謙虚なあり方で、他者への配慮を持ち、自律する。師であればこのように語る気がする。
ただ、私はクリスチャンではないので、こうした実存的なあり方を実践できるのかという至極最もな疑問がある。例えば私の口からキリスト教的良心が何たるかを語り示すことは当然できないし、またそのように生きることもできない。
では、どのようにこの此岸を引き受けるのか。実のところ、私の回答はすでに仮定されている。つまり、それは誠実と調和――不都合な世界や自分自身があっても、偽善的にも欺瞞的にもならず、その現実を引き受け、全うすること。差異を差異として肯定しながら、他者との調和を築くこと。私の実践とはここに要約される。